<白木屋傳兵衛>中村梅吉さんの「いい話」【第7回:敗戦直後の思い出】

 昭和20年8月15日、私は旧制中学の3年生。軍事教練のため軍から貸与されていた38式歩兵銃を担いで柏の連隊へ行っていた。重大放送がある予告は前日に出ていたから錬兵場へ部隊全員が整列し、その一番隅の後ろへ並ばされて放送を聴いた。「君が代」が流れ「天皇陛下御自ら」の声が流れる。全員、直立不動の姿勢だ。だが、ガーガーピーピーと雑音ばかり。皆、聞き取れず、ざわつくと若い将校が飛んで来て大喝一声「学生ども! うるさい!」
 帰り道、柏駅まで、ああでもないこうでもないと言っていると、「負けたんだ」と主張する者が出てきた。そいつは「バンセイニタイヘイヲヒラク」と陛下がおっしゃられていたと言う(後に彼は東大へ)。
 やっと柏駅へ着くと、1人がどこかで新聞(B4版)を手に入れた。これでようやく敗戦を理解した。
でも、今、冷静に考えると200人もが鉄砲を担いで畑の中を1時間も歩いていたのだ。あれが8月15日でなかったら、必ず戦闘機の機銃掃射を食ったろう。あの日から「敵の飛行機」は飛んで来なくなったのだ

 8月15日から数日間は、厚木の302航空隊の戦闘機「雷電」が東京を低空で飛んで、「我降伏せず」「厚木航空隊は戦闘を継続する」などのビラを撒きに来たが、日本軍の飛行は禁止となり、以後は連合軍への連絡飛行として「緑十字」機だけが許可された。
 また8月24日から9月1日までは、多数のB29が全巾43mの翼下全面に「US SUPPLIER」と大書して、単機で飛び廻っていた。捕虜収容所への物資投下をするためと思われ、2箇所の爆弾倉扉は全開、銃座はフル装備。落下傘で落とすからピンポイントでは落とせず、収容所周辺の住民は余慶に預かったと聞いている。
 9月2日、東京湾上の米戦艦「ミズーリ」の艦上で、降伏文書の調印式が行なわれた。当日は、東京上空をアメリカ艦載機の大編隊がこれでもか、これでもかと2時間ほども分列編隊飛行をした。戦闘機はともかくとして、攻撃機、雷撃機の速度が遅いのに驚いた。こんなのにやられたのかと思ったものだ。
 当時の新聞は戦時中の命令調そのままで、「連合軍をキチン(正確な語句は忘却)と迎えよ。大国民の民度を示せ」といった具合。「負けたくせに、何言ってやんでぇ!」と思ったが、その新聞もタプロイド版といってB4の大きさしかなく、確か朝刊だけで1枚2ページのみ。ラジオも無い。だから情報不足だ。学校も行っていたような、いないようなで、記憶が定かでない。張り詰めた気合いが抜けて、腑抜けになっていたのだろう。皇居前へも行っていない。

中村梅吉(なかむら うめきち)
白木屋中村伝兵衛商店6代目店主。昭和4年(1929)、東京市京橋区宝町3-4(現:中央区京橋3-9-8)に白木屋箒店(現、白木屋中村伝兵衛商店)の長男として生まれる。
区立京橋国民学校(小学校)、東京府立第3中学(現両国高校)を経て、東京外事専門学校(現東京外語大)の蒙古科に入学。蒙古語、中国語、ロシヤ語を習得。昭和37年(1962)から平成15年(2003)まで、6代目店主として家業に勤しむ。
昭和55年(1980)から中央区歴史講座で川崎房五郎氏に師事し、江戸学を開始。隠居後、中央区の文化サポーターや江戸東京博物館ボランティアとして、年間30回以上、講演や街歩きの案内を務めている。
また、東京大空襲の被災者としての証言など、様々な形で江戸—東京の歴史を伝える活動にも関わり続けている。茶道、飛行機模型、手話などなど、趣味も多彩で本格派。