江戸の歳時記|8月 江戸の花火
・花火の始まりは?
 花火がいつ、誰の手によって作られたかといった起源についての話は、残念ながら正確なことがわかっていません。花火にとって欠かすことのできない黒色火薬(硝石75%、硫黄15%、木炭10%から成る)の発明の時期さえ、実ははっきりしていないのです。
中国の南宋(1127~1279)の時代に爆竹やねずみ花火に近い花火が楽しまれていたという史料や、14世紀後半にイタリアのフィレンツェで祝祭の花火が上げられたという史料はありますが、詳細は不明。いずれにしても、花火は火薬と火器という武器の発展の途上、その技術の応用として、ゆっくりと発達していきました。
日本の花火の歴史は、もちろん、もっとずっとあとから始まります。ルーツは天文12年(1543)の種子島の鉄砲伝来。そうです、このとき鉄砲とともに、火薬も初めて日本にもたらされたのです。しかし、火薬はまず戦争の道具、「火器」として使用されました。鉄砲が、その後の日本の歴史を変えていったのはご存知のとおり。
そして、江戸時代という安泰の世になって始めて、花火は火器から離れて考えられるようになりました。それは、戦乱の時代、火薬を扱っていた人たちが選んだ、平和な時代に生計をたてるための生きのこり策だったのかもしれません。ともあれ、日本の花火は、こうした人々が細々と作り始めた玩具花火の形をとって、まずは庶民の遊びの中に登場することになりま した。
花火
・「鍵屋」と両国川開き
 万治2年(1659)、ちょうど大川(隅田川)に両国橋が架けられた年、大和の篠原村から弥兵衛という男が江戸に出てきました。火薬が扱えた弥兵衛は、葦のくだの中に火薬を練って入れた玩具花火を売り出して、たちまち大成功。弥兵衛の花火は、それまで売られていた線香花火やねずみ花火よりも大きな火が出るところがウケたのです。
その金をもとに、弥兵衛が両国横山町に出した店の屋号が「鍵屋」。打ち上げ花火につきものの掛け声「玉屋ぁ、鍵屋ぁ」で知られる、あの鍵屋の誕生です。
弥兵衛はその後も大型花火の実験を重ね、より大きく、より高く上がる花火の開発を続けました。58年後の享保2年(1717)には水神祭りの夜に献上花火の打ち上げにも成功。
これが、後に始まる両国の川開き花火の先鞭をつけることになりました。
ちなみに両国川開きとは、火事の多かった江戸の火除け地として造られた両国橋たもとの広小路や大川端に、旧暦の5月28日から8月28日の間、夜店や屋台の出店が許された納涼期間の初日。
大川端両岸に並ぶ船宿や料理茶屋が納涼船を大川に漕ぎ出して、お客をもてなすのも、この日からでした。いわば、お江戸の夏の始まりを告げる風物詩。
川開きに初めて花火が打ち上げられたのは、享保18年(1733)5月28日のことでした。
ちなみに両国川開きとは、火事の多かった江戸の火除け地として造られた両国橋たもとの広小路や大川端に、旧暦の5月28日から8月28日の間、夜店や屋台の出店が許された納涼期間の初日。
大川端両岸に並ぶ船宿や料理茶屋が納涼船を大川に漕ぎ出して、お客をもてなすのも、この日からでした。いわば、お江戸の夏の始まりを告げる風物詩。
川開きに初めて花火が打ち上げられたのは、享保18年(1733)5月28日のことでした。
鍵屋
・花火のスポンサー
 享保年間(1716-35)も後期になると、大川では川開きの日だけでなく、納涼期間中、夜ごと花火が上げられるようになりました。町人の経済力が増し、大店(おおだな)の旦那衆が花火のスポンサーになったからです。
旦那衆の豪遊ぶりは芝居などにも取り上げられるほど豪華絢爛なものでしたが、なかでも一瞬の輝きに大金を出す花火は、その主人の粋ぶりや店の繁盛ぶりを見せつける格好の余興でした。旦那衆が涼み船に乗って大川に繰り出すと、たちまち花火を売る花火船が集まってきたといいますから、営業合戦も宴に華を添えたことでしょう。ちなみに、船を仕立てると5両、花火1発の相場は1両だったそうです。一方、大川沿いに下屋敷を持つ諸大名も、「商人に負けてはならじ」と、競って花火を打ち上げるようになりました。
特に徳川御三家(尾張・紀州・水戸)の花火は、その豪華さで大人気。「今日は紀州様の花火」「明日は水戸様」と伝えられると、大川沿いにはたいへんな数の見物人が集まったとか。伊達政宗公以来の豪放な家風を表わしていると人気の仙台伊達家の花火では、見物人が集まりすぎ、その重さで藩邸近くの万年橋が折れてしまう事故まで引き起こすほどでした。
なお、町人花火が「仕掛け花火」などのように横に広がるものが中心だったのに対して、お抱えの火術家・砲術家が担当することが多かった武家の花火は、尾を引きながら上がり、空で弧を描く「のろし花火」が主体でした。現代の夜空を彩る花火は、この両方の技術が進化、融合して生まれたのです。
花火
・「玉屋」は、いずこへ?
 「玉屋ぁ~、鍵屋ぁ~」の歓声で知られるように、鍵屋とともに玉屋も江戸を代表する 花火屋でした。といっても、玉屋が登場したのは、鍵屋が6代目になった文化7年(1810)。鍵屋の手代だった清吉が別家して、「玉屋」の看板をあげたのです。当時は商人の階級がきびしく、20年ほども働いて番頭になり、それからやっと分家や別家が認められた時代でしたから、手代で暖簾分けをしたということは、それだけ清吉の人柄や才能がずば抜けていたと想像されます。
玉屋の別家によって、川開きの大花火は、まさしく「玉屋ぁ、鍵屋ぁ」の大歓声に包ま れる競演の時代となりました。大川の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持つことになったのですが、人気は玉屋の一人勝ち。どうやら、色も形も玉屋の方が優れていたようです。浮世絵に描かれた花火船も玉屋のものばかりだったといいます。
ところが、それから32年後の天保14年(1843)5月17日の夜、玉屋は店から火事を出してしまいます。燃え上がった炎は店を全焼し、さらに周辺の町にも飛び火して半丁ほどをも類焼。失火は情状酌量される時代でしたが、この日が将軍家慶の日光参拝の前日であったため、玉屋は財産没収のうえ江戸追放、家名断絶という厳しい処分となってしまいました。まさしく、花火のように一代であっけなく消えてしまったのです。
玉屋がなくなった後、川開き花火は鍵屋がすべてを受け持つことになりました。でも、観客から上がる歓声は変わらず「玉屋ぁ、鍵屋ぁ」だったとか。
玉屋
玉屋
・カラーの花火はいつから?
 江戸時代の浮世絵に描かれた花火の絵を見て、気がつくことはありませんか?
浮世絵の華麗な描写にまどわされて案外見落としてしまうのですが、実は、玉屋や鍵屋に代表される江戸の花火は、光だけのものでした。つまり、江戸の花火に色はついていなかったのです。とはいっても、夜間の照明といえば行灯やロウソクぐらいしかない当時、炎の強弱だけで表現される花火でも、人々にとっては充分に楽しく華やかな夢のようなエンタテインメントだったのです。
では、現在のような色とりどりの花火が造られるようになったのはいつからかというと、 明治維新を迎え、花火に色をつけることができる化学薬品が海外からもたらされてからです。ただし、すぐに総天然色の花火ができたわけではありません。こうした薬品は、調合している間のちょっとした打撃や摩擦でも爆発するという性質をもっていましたので、実験は爆発事故の連続。色花火の開発は、まさしく花火師たちの命がけの研究だったのです。
初めて、公にテクニカラーの花火が打ち上げられたのは、明治22年(1889)2月11日。この日、日本は大日本帝国憲法を発布。フルカラーの花火は、その祝賀行事の夜のメインイベントとして皇居の二重橋から打ち上げられました。今までにない明るさと、しかも色のついた花火に、人々がどよめき、大歓声をあげたはもちろんのこと。
それにしても、明治の東京市民たちが感じた驚きや感激を、フルカラーの花火を見慣れてしまった現代の私たちは、もう味わえないものかもしれませんね。
カラーの花火

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