<大江戸広辞苑>【は行】

【は】八百八町、ほんとの町数は?
 「白髪三千丈」に代表されるように、数を大袈裟にいう言い方がありますが、「大江戸八百八町」と言われた江戸には、ほんとはいくつの町があったのでしょう。町奉行支配の町数を追ってみましょう。
まず、慶長から寛永年間(1596~1644)。徳川家康は江戸幕府を開くと大規模な宅地造成を行い、300余の町を新設しました。これを、古町と呼んでいます。
ところが、寛永18年(1641)の大火で古町の3分の1にあたる97町が焼失したのを契機に、江戸の市街化は周辺へと広がりました。さらに明暦の大火(1657)で江戸の6割が焼けると、いよいよ大規模な都市計画が行われることになりました。結果、町奉行支配に組み込まれた町は674町。
そして、元禄年間のあと正徳3年(1713)に本所、深川一帯や山手地域が編入されて933町。ここで、江戸は八百八町を大きく超えることになりました。というわけで、元禄あたりなら、「八百八町」というのは、ちっとも大袈裟な数ではなく、むしろ謙遜しているくらいの数なのです。
ちなみに、江戸はその後もスプロール化を続け、延享2年(1745)には1678町に達しています。

【ひ】美人の条件
 「女性の美しさにも、その時々の流行があります。
まずは元禄時代の「美人」の条件といえば、豊かな体と、ふくよかな顔。元禄7年(1694)に描かれた菱川師宣の「見返り美人図」は、まさしく元禄美人の代表です。
ところが、田沼時代を境に、状況は一変します。がらりと変わった「美人」の条件は、柳腰のほっそりした体と、細面の顔。鈴木春信の「弾琴美人」が、それを表わした代表的な一枚で、琴を弾いている女性は少女のように細身で、清楚な顔つきが印象的です。この「細身の姿」こそ、「いき」の文化に影響されたもので、この美人条件は幕末まであまり変わりませんでした。
幕末、紀州藩附家老の侍医が書いた見聞記『江戸自慢』には、こんな記述があります。
「女は色白く、首筋と足とは格別奇麗にて、これを自慢か寒中も足袋を用いず。いずれも男の如く外八文字ゆえ(男のように外股で歩くので)、尻小さく、真の柳腰にて、後ろ姿を見ば、武蔵坊も二度の念を起すに有らん。多く下駄をはき、雪踏裏附をはくは少し。足の達者なること飛脚も降参すべし。衣服もいたって地味にて紺縞、藍小紋など眠り目なる用ゆ。夏とても地白小紋、白縞など一切着しものなし。髪は油を附けず、洗いなりにて引つけの丸髷……」
「いき」の文化が登場してから後、ふっくら型の女性や冷え性の女性は、さぞかし苦労したことでしょう。

【ふ】富豪・豪商・政商
 開府して80年もたつと、江戸の繁栄とともに富豪・豪商と呼ばれる人たちが登場してきます。
なかでも、派手な生涯を送った代表といえば、紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門。いずれも将軍綱吉の時代に幕閣と手を握り、官営の土木建築事業を請け負って巨万の富を築き上げた、いわゆる政商です。しかし、紀伊国屋文左衛門が吉原を貸し切った話などでも知られるように、二人とも小気味良いほど贅沢三昧をして財産を使い切り、富豪時代は一代限り。奈良屋などは遺言で「貸家の店賃でつつましく暮らせ」と息子達にさとした話が伝えられています。
一方で、富豪の家系が続いた人たちもいます。呉服店「越後屋」(三越百貨店の前身)や後の三井財閥の元となる「三井両替商」を開いた三井高利は、その代表でしょう。「く」の項で説明したように、江戸に出回る高級品のほとんどは「下り物」で、それを扱う商人の多くが伊勢、近江、京都の出身者でしたが、三井も伊勢松阪の人。江戸には伊勢商人が特に多く、木綿問屋が集まっている大伝馬町では、ほとんどが伊勢店(いせだな)だったといいます。
また、時代が進むにつれて、江戸生まれ・江戸育ちの豪商も誕生しました。その代表格が札差(ふださし)と呼ばれる人々です。札差は、もともと幕府から旗本への給米を現金化する商人でしたが、やがて旗本が将来支給される米を担保に借金をするようになって、金融業化しました。この札差たちが隅田川の東岸に別荘を建てたり、遊里で通人として豪快にお金を使ったりして、江戸文化を創造する最初の担い手となっていったのです。

【へ】ペリーも驚いた男女混浴
 文化10年(1813)、江戸市中にある風呂屋の数は600軒ほどだったとか。風呂がある家はめったにありませんでしたから、大店の主人も丁稚小僧も、職人も露店商も武士も、みんな湯屋(ゆうや)と呼ぶ風呂屋に通いました。
湯屋は、コミュニケーションの場でした。特に男性は別料金を支払えば2階の座敷に上がれ、菓子をつまんだり、囲碁や将棋を楽しんだりできました。湯屋では身分を超えた付き合いができたのです。では、1階の風呂場はというと――。
少なくとも、江戸中期まで、風呂屋は基本的に混浴でした。そして多くの本には、男女混浴は寛政の改革で禁止されたとあります。たしかに、これは事実。でも、その後も、混浴禁止のお達しが繰り返し出されているのです。ということは、ちっとも守られていないということ。明治になっても混浴禁止の通達は出し続けられ、混浴が内務省の法令により完全に消滅したのは、明治33年のことです。
その間、「男女の浴槽を分けろ」のお達しが出ると、一つの湯船の真ん中に板を渡しただけの「男女別浴槽」を考えたり、「男女の浴室を分けろ」のお達しが出ると、「ガラス張りの仕切り」を考案したり……。江戸時代から明治33年まで、お上と風呂屋の化かしあいは延々と続いたのでした。
「男も女も裸体をなんとも思わず、互いに入り乱れて混浴している」と、江戸の風呂屋の風景をビックリして書いているのは、かのペリー提督です。

【ほ】本屋とベストセラー
 江戸時代の本屋さんは、本を売るだけでなく、出版社でもありました。本屋は、最初京都で発展し、元禄年間には大阪の本屋も井原西鶴や近松門左衛門などの出版物で当て、勢いを伸ばしてきました。しかし、江戸の本屋はまだ生長途上で、取次店に甘んじていました。
江戸はえぬきの本屋が台頭してくるのは田沼時代からです。江戸の本屋は、主に教養書などのかたい本を出版する「書物問屋」と、黄表紙(浮世絵入りの読本)や錦絵、浄瑠璃本などの娯楽本を出す「地本問屋」の2つに大別され、それぞれベストセラーを出していきました。
なかでも、江戸最大のベストセラーといえば、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。21年間にわたって43冊も書かれた長編ですが、それぞれ1万部を売ったといいますから、合計すれば43万部。黄表紙では、柳亭種彦の『偐紫田舎源氏』が38編を各1万部売って、計38万部。山東京伝の『心学早染草』が1万4000部……。
「な~んだ、その程度?」と思った、あなた。確かに発行部数は大した数ではないかもしれませんが、読者数はその何倍、何十倍もいたのをお忘れなく。というのも、天保年間(1830~1843)には貸本屋が800軒以上もあり、庶民はもっぱら、そこで本を貸りていたのです。
たとえば、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』などは箱入りの豪華本で、500部程しか印刷されなかったそうですが、八っつあんや熊さんのような長屋の人々も延々28年間にわたって全108冊も続いた本の続きを、今か今かと待ち焦がれたのです。江戸っ子は、なかなかの読書家のようですよ。

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