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| ◆5月 神田祭◆ |
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・江戸っ子の晴れ舞台
神田祭は、千代田区外神田にある神田明神(神田神社)の祭礼で、日本を代表する祭りの一つです。神田明神が江戸の総鎮守であったことから、氏子地域は神田、日本橋、大手町、丸の内など、東京の中心部108ヶ町会を占める規模。したがって祭りも、江戸時代「天下祭」と称えられたのにふさわしい、勇壮華麗なものとなっています。
さて、神田祭の祭礼の中心は、なんといっても神輿渡御です。大小取り混ぜて100基以上の氏子神輿が町に繰り出し、そのうち約70基が神社まで巡行し、宮入りを行います。なかでも旧神田青果市場の巨大な千貫神輿は圧巻。また、神田祭の見どころの一つに神幸祭があり、秋葉原を出発する神輿や山車に曳き物、踊り手が加わり、数千人の大行列となって神社へと向かいます。
なお、神田祭は毎年5月15日に近い日曜日を中心に、5日間にわたって繰りひろげられますが、本祭りは隔年で行われ、丑・卯・巳・未・酉・亥の年。本祭が行われない年には蔭祭が行われていますが、こちらはお神輿が出ない小規模なものになっているのでご注意を。
ともあれ、祭りともなれば、この日を待ち受けている江戸っ子たちで、氏子町は大賑わい。誇らしげに神輿を担ぐ光景は、まさしく江戸っ子の「晴れ舞台」です。
【問合せ先・神田明神 http://www.kandamyoujin.or.jp/】
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神田祭 神輿の飾りつけ
【写真提供:宮本卯之助商店 撮影:三沢淑子さん】
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本祭りは隔年で執り行われる
【写真提供:神田明神】
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・江戸時代の神田祭は「秋祭り」だった
現在の神田祭は5月中旬に行われていますが、もとは9月15日を祭礼日として行われていました。
江戸の繁栄とともに江戸のお祭りが盛大になり、やがて派手になりすぎたため、天和元年(1681)以後は、山王祭と神田祭が隔年で本祭を行うこととなりました。が、それでも神田祭は9月に行われる秋祭りだったのです。
ところが、明治17年の祭りが大嵐に見舞われ、神田多町などの山車(だし)が倒れてけが人が続出。以来、神田祭は比較的天候の安定している5月に行われるようになりました。
いまでこそお祭りはお神輿(みこし)中心ですが、江戸から明治にかけては神幸行列の前後に30数台の豪華な山車(だし)と趣向を凝らした練物(ねりもの)がついて、江戸城内に繰り込み、将軍の上覧に供していました。背の高い山車に、風は大敵。台風シーズンを避けるために、神田祭は秋祭りから初夏の祭りへと日程が変わったのです。
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神輿が繰り出し、氏子町が祭りに湧く
【写真提供:神田明神】
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神田祭・神幸祭
【写真提供:宮本卯之助商店 撮影:利根川儀八氏】
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・格下げ、異動させられた「祭神」
神田明神は天平2年(730)に創建されたと伝えられる古刹で、もとは現在の大手町にある将門塚(まさかどづか)のところにありました。江戸時代に城下の整備に伴って、まず慶長8年(1603)に駿河台へ移転。元和2年(1616)に、現在の場所に移りました。『江戸名所図絵』によると、当時の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)すなわち大黒様と、平親王将門の霊すなわち平将門(たいらのまさかど)公となっています。
ところが、明治になって、祭神に異動が起こりました。明治7年、明治天皇が同神社に行幸するにあたって、政府から「平将門は平安時代に朝廷に敵対し、関東に独立国を建てようとした逆賊。配慮せよ」との意見が出たのです。
しかし、逆賊とはいえ、平将門は東国の人気者。そこで神社ではやむをえず将門のご神体を末社に移し、代わりに茨城県大洗の磯崎神社から少彦名命(すくなひこなのみこと)のご神体を移しました。この措置に、神田っ子が猛反発して祭りのボイコットまでしたという話も伝わっています。
将門が再び主祭神の座に戻ったのは、昭和59年のこと。以来、神田祭では大己貴命の一の宮鳳輦、少彦名命の二の宮神輿とともに、平将門公の三の宮鳳輦が出るようになりました。
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クリックすると神田囃子を聞くことができます↓
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