<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」(第2回)
 「日本橋絵葉書びっくり展覧会」へようこそ。第2回目となる本日も開会のお時間となりました。ご用とお急ぎでない方はどうぞごゆっくり覗いていってください。
 よく日本橋の絵葉書をどのくらい所蔵しているのか聞かれるのですが、恐らく1000は超えていると思われます。この展覧会の会期中には正確な数字をお伝えできるよう、改めて整理してみます。今回もその中から厳選した絵葉書を展示いたしましたので、お楽しみください。お代は、東都のれん会加盟店でのお買い物で。

 日本橋がメインになっている絵葉書は、北側(三越側)を望む景色と、南側(白木屋側)を望む景色、さらには真横から、橋の上からなどいろいろなアングルのものがございます。圧倒的に多いのが北側を望むもので、今回はテッパンの「北側アングル特集」と参ります。

01

 まずは前回の「開橋の日」から間もない明治44年の1枚です。左端には、架橋工事の際に路面電車が迂回していた電車用の橋がまだ残っております。また、日本橋の反対側には、歩行者用の仮橋もまだあります。
 「仁丹」の看板の隣りの、「冷蔵函」の看板にもご注目ください。「れいぞうばこ」なのか「れいぞうかん」なのか読み方は不明ですが、これは当時出始めていた「氷冷蔵庫」の商品名です。氷冷蔵庫とは、木製の箱の上の棚に氷を入れ、下の棚に食品を入れて保冷するというクーラーボックスのようなもので、帝国冷蔵というメーカーの商品名が「冷蔵函」、「冷蔵器」と名付けたメーカーもあったそうです。
 単なる看板なのですが、そこから魚河岸の衛生問題や日本の製氷産業の歴史なども読み取ることができ、そうやって絵葉書の中の世界の深みにはまっていくのです。

02

 同じアングルの、大正4年頃に撮られた1枚です。撮影場所は、現在の国分ビルの位置からですが、1枚目よりも目線が上からになっております。これは、国分グループの前身の国分商店の新しいビルが大正4年に竣工し、1枚目の時よりも高い位置から撮影できるようになったからでしょう。
 「冷蔵函」の看板はなくなってしまいました。それなりに普及したのか、費用対効果が悪かったのでしょうか? 
 そして、魚河岸が白壁の建物になりました。絵葉書の中の魚河岸はこのイメージなのです。日本橋の架け替えに伴い、魚河岸も再開発されたのかもしれません。

03

 さて、お次のこの絵葉書の年代を特定するにあたっては、日本橋以外に3つの建物の情報が必要となります。
 まず、日本橋はすでに今の橋なので、明治44年以降は確定。そして、三越の位置を見てみますと、なにやら工事中です。これは、大正3年に竣工する「三越呉服店」のルネサンス式5階建ての新館の工事ですので、大正3年までの間と限定されます。
 さらに、この写真は2枚目よりも高い位置から撮影されていますが、現在の日本橋の南側、野村證券と布団の西川の間にある日本橋御幸ビルの場所にかつてあった「村井銀行」の屋上から撮られたものと思われます。村井銀行のビルが大正2年竣工なので、大正2年か3年の風景と推測できます。
 もう一つのカギとなるのが、日本橋の古絵葉書ではお馴染みの赤レンガの細長い建物の「帝国製麻ビル」です。こちらの絵葉書にはまだその姿はございません。竣工が大正4年ですので、工事期間を考慮いたしますと、この絵葉書は大正2年の村井銀行竣工直後くらいが妥当でしょう。
なお、帝国製麻ビルの竣工年に関しては大正元年から5年頃まで諸説あるのですが、周囲の建物との整合性を取り、大正4年以降ではないかと判断いたしました。

04

 さてさて、こちらの1枚では、先ほど話題になった三越呉服店の建物が完成しています。屋上の塔がシンボルマークです。赤レンガ造りの帝国製麻ビルの姿もあり、両方とも新築の匂いがしそうです。大正4年頃から8年頃の間の風景だと思われます。

05

 では、お次の1枚をご覧ください。三越呉服店の建物が成長して倍くらいのサイズになっているのがお分かりでしょうか? これは西館を増築したからで、大正10年に竣工しました。西館にも高塔があり、豪華な感じです。この頃の三越は、横から見られることも意識してデザインされていたのかもしれません。

06

 明治から大正にかけてどんどん発展していった日本橋の街ですが、大正12年の関東大震災では焼け野原になってしまいました。この絵葉書ではわかりにくいのですが、魚河岸は跡形もなくなってしまいました。しかし、一見して絵はがきが震災後の景色のように見えないのは、三越や帝国製麻ビルなどが内部は焼失したものの躯体は残っているためと、何より日本橋が震災前と同じ姿でそこにあるからではないでしょうか。

07

 関東大震災から1年後くらいの絵葉書でしょうか。
バラック小屋があちこちに建ち、路面電車も走っていて、すっかり復興したように見えますが、帝国製麻ビルのドーム部分や三越の外壁などに震災の跡がまだくっきりと残っています。

08

 こちらは、前の1枚と同じ頃の絵葉書で、彩色したものです。実際の風景とはかけ離れたファンタジックな色彩となっていますが、コゲ跡の彩色に妙に力が入っております。

09

 さらに復興が進み、大正14年から昭和元年頃のものではないかと思われる1枚です。またまた三越が工事中となっておりますが、震災で残った躯体を利用し、新たに建て直している最中です。竣工は昭和2年なので、この絵葉書はその直前に撮影されたものでしょう。帝国製麻ビルのドームもすっかりきれいになりました。
 そして、震災後から急速に自動車が普及し始め、絵葉書の中の風景にも自動車の姿が目立ち始めるのです。それにしてもこの1枚、歩行者も自転車も自動車も、実にフリーダムな動きです。

10

 昭和2年頃の日本橋北側の風景です。バラックだったところが徐々に建て替えられ、三越も完全復活。本館の塔は、この改築で外されてしまいました。この三越の建物はその後も増築を繰り返し、現在の日本橋三越の本館部分になっております。
 三越呉服店は、昭和3年に株式会社三越になりました。絵葉書には「三越呉服店」と記されていますので、昭和2年の絵葉書と判別できます。

11

 お次は、一気に昭和30年頃の風景です。現在の三越新館入口がある角地に忽然と現れた高いビルは、昭和27年竣工の「興亜火災海上ビル」です。今、交番や船着場がある辺りは、日本庭園のような感じになっております。震災と戦災を体験してもなお、日本橋は変わらず佇んでいます。
 日本橋界隈の絵葉書は、震災後の復興の風景までは存在するのですが、戦時中や戦後の絵葉書はほとんどないのです。絵葉書を発行するのに必要な余分な物資も心の余裕もなかったのかもしれません。

12

 前の1枚と同じ頃かと思いますが、交通量が増えました。自動車のデザインも変わりました。そして、ちゃんと歩道と車道の区別がなされていて一安心です。

13

 今回のトリは、この1枚です。「興亜火災海上ビル」の看板が増えております。昭和30年代の半ば頃でしょうか。昭和38年に高速道路が架けられる前の、橋の上に空があった最後のひとときかもしれません。
 絵葉書の需要がなくなったからか、あるいは高速道路のせいで被写体としての日本橋に魅力がなくなったのか、日本橋地区の絵葉書はこの頃を境に発行されていないようです。

今では刻の彼方に消えた日本橋の風景の数々でございました。
それでは、今宵はこれにて閉幕とさせていただきます。

樋口純一(日本橋 弁松総本店 八代目)
history
 2017年7月21日、「日本橋 首都高地下化へ」というニュースが飛び込んできました。石井啓一・国土交通相が記者会見をして、日本橋の上を走る首都高速道路の地下移設に向けて取り組むと語ったのです。1964年の東京オリンピック開催に向けて、東京の交通渋滞緩和の切り札として高速道路網が整備され、日本橋の上を高速道路が覆いました。その時のおおかたの世論は好ましいこととして歓迎する空気が強かったのです。江戸橋方面からメカニックな曲線を描いて通る高速道路は都市美の象徴ともみられました。
 地元でも、日本橋が高速道路に覆われたことを憂う意見は少なかったのです。オリンピックが終わり、しばらく経った頃から東京を代表する中央橋・日本橋が屋根のように覆われたままでよいのかという声が、日本橋を日々眺め、毎日のように渡る日本橋の人々の間から湧き上がってきました。5年後に名橋「日本橋」保存会ができ、さらに1999年に日本橋は国道の道路橋として初めて国の重要文化財に指定されるとその声は高まりました。
 日本橋が高速道路に覆われて今年で53年、工事は2020年のオリンピック・パラリンピック後の予定といいます。これからも紆余曲折はありましょうが、ここに掲げられた絵葉書のように白日のもとに蘇った日本橋を渡ることができる日は何年後のことでしょうか。

野口孝一(近代都市史研究者、中央区文化財保護審議会委員)