<大江戸広辞苑>【か行】
【か】火事と喧嘩は江戸の華
 江戸は名うての火災都市でした。記録に残るものだけでも約1800件もの火事があったといいますから、尋常ではありません。
こうした火事のほとんどは、庶民が住む人口密集地帯から出火したものでした。細い木材を使い、板や茅、わらなどで屋根を葺いた安普請の家は燃えやすいことこの上なく、火の粉が上がれば、またたくまに延焼しました。なかでも、明暦3年(1657)に起きた明暦の大火は、江戸の町の60%を焼き、約10万人の死者を出す大惨事となりました。幕府はこの大火を契機に、市街地の防災化と都市改造に乗り出します。
しかし、それで火事が減ったわけではありません。享保5年(1720)には大岡越前守が町火消し「いろは組」を組織していますが、消防方法はというと、周辺の家屋を壊して防火帯を造り、延焼をくい止めるだけ。30年ほど後には竜吐水というポンプも発明されますが、15mほどの放水能力しかなかったといいますから、たいした威力はなかったでしょう。
ところで、江戸には、こうした火事をこっそり歓迎している人々もいました。大工や左官、鳶職といった建設関係の職人は、大火があれば仕事が増え、手間賃も上がりましたし、火事場の片付けや古クギ拾いをする人も必要になりました。火事は、多くの人々が食べていける仕事も供給したのです。

【き】キーワードでつかむ江戸時代

 265年も続いた江戸時代。元禄時代って、いつ頃なの? 黄門様っていつ頃活躍したの? これがわからないと江戸時代はさっぱりわかりません。キーワードで大まかな時代のイメージをつかんでください。江戸時開府400年と老舗創業の年表も、ご参考に!

1. 江戸初期
1603~1660年頃(桃山風の絢爛豪華な文化の時代/寛永期の文化)
有名人= 光悦、探幽、宗達、柿右衛門、大久保彦左衛門、徳川光圀
トピックス= 人形浄瑠璃流行、姫路城天守閣・名古屋城・日光東照宮・桂離宮などの造営、鎖国、明暦の大火
2. 江戸中期
1660年頃~1780年頃(京都・大坂の上方文化中心の時代/元禄文化)
有名人= 初代市川團十郎、西鶴、芭蕉、近松、友禅、光琳、仁清、新井白石、大岡越前守、青木昆陽、
トピックス= 生類憐れみの令、湯島聖堂の造営、赤穂浪士討入り、享保の改革、田沼時代
3. 江戸後期
1780年頃~1867年(江戸独自の文化が花開いた時代/化政文化)
有名人= 杉田玄白、平賀源内、本居宣長、山東京伝、歌麿、写楽、十返舎一九、式亭三馬、滝沢馬琴、一茶、伊能忠敬、シーボルト、北斎、広重、坂本竜馬
トピックス= 寛政の改革、天保の改革、黒船来航、大政奉還

【く】くだらない
 江戸っ子は、どうも大酒飲みが多かったようです。
享和元年(1801)の史料によると、伊丹や灘などの上方や伊勢、尾張などから船で江戸に運ばれた酒は、1年に約80万樽。一方、関東近県から入るものは11万樽だったとあります。江戸の住人を100万人と考えても、年間1人当たり1升瓶36本の日本酒を飲んでいた勘定です。当時の日本酒は、現在のものに比べて薄かったとはいうものの、決して少ない酒量ではありません。
それにしても船便の酒が多いのは、当時は関東の造り酒屋の醸造技術が遅れていたため、上方から船で「下って」やってくる酒の方がおいしく、歓迎されたからです。
そして「下り酒」はうまい、「下らない酒」はうまくないという認識が高まるにつれてと、いつしか「くだらない」という言葉がイコール「上等でない、つまらない」という意味で使われるようになっていったのです。
なお、酒以外にも「下り物」として喜ばれたのは、呉服や小間物類、刀剣、貴金属製品などの高い技術が要求される品々。江戸経済の発展にともなって、地廻り物が下り物を圧倒するようになっても(野田・銚子の醤油などは、その象徴的な例です)、下り物イコール高級品という観念は、後年まで続きました。

【け】倹約令の裏をかく
 江戸時代には、たびたび倹約令が出されています。なかでも天明の大飢饉の終盤、天明7年(1787)に老中・松平定信が寛政の改革で出した倹約令(奢侈禁止令)は、衣食住のすべてにわたって厳しく規制するものでした。ところが、この時期の人々は、すでに元禄の贅沢を味わってしまったバブル人間。「はい、そうですか」と素直に従うわけがありません。倹約令の裏をかく、さまざまな知恵を編み出しました。
「隠れ使用」の例としては、庶民の絹布着用禁止に対抗して、すぐに裏地に絹を使った着物が登場。結城紬などは、たて糸に木綿を使って倹約令から逃れたといいます。また、タイマイという高価な海亀の甲羅を櫛やかんざしに加工する鼈甲(べっこう)は「安いスッポンで作っている」とウソまでつきました。それで、べっこうは、スッポン(鼈)の(甲)羅という漢字を書くのです。
「規制内で贅沢」の例としては、大きい雛人形が規制されたことで、手の込んだミニチュアお雛様が生まれたり、木綿の浴衣に職人技を結集した贅沢なものが作られたり……。また、庶民の着物には赤や黄色などの華やかな色の使用も禁じられたのですが、染め職人は俗に「四十八茶百鼠」と呼ばれるほど茶や鼠色を微妙に染め分けてみせ、江戸っ子はその地味な色を個性的に着こなして流行色にしてしまいました。
「い」の項で紹介した江戸っ子の「いき」は、こうした庶民の贅沢の欲求と、職人の意地と技が生んだ文化だったとも言えるのです。

【こ】ご飯で「江戸わずらい」
 「このごろ、仕官している人や商人は、江戸へ行くと気がめいり、足や膝がだるくなる。顔はむくみ、食欲がなくなる。これを俗に“江戸わずらい”という。これは土地や水が合わないためで、故郷に帰る途中、箱根山を越えると、その症状は自然と解消する。西国の諸侯の江戸屋敷では誰もがこの病気にかかり、ひどい者は必ず死ぬ。」
これは、享保年間に活躍した医師、香月牛山の記述内容。牛山が記したこの奇病、実は水が合わなかったのではなく、脚気(かっけ)、すなわちビタミンB1欠乏症でした。
原因は、白いご飯。8代将軍の吉宗は「米将軍」といわれたほど米価の安定政策に熱心で、この頃、江戸では庶民層までが雑穀の混じらない白飯を食べるようになっていました。そして、こだわったのが、真っ白に精白した米。地方から江戸に来た武士や商人も、大喜びで銀シャリに舌鼓を打ったのです。ところが、いわゆる銀シャリは栄養分のあるヌカを精米で取ってあるので、たちまちビタミンB1不足に陥ったという次第。おかずで栄養バランスをとる、なんて知識は当時の人にはなかったので、しょうがないですね。
ちなみに、江戸っ子が毎日のように蕎麦を食べたのは、知らず知らずに蕎麦のビタミンB1を採っていて、体調がよかったからではないか……と、これは筆者の想像。
脚気は江戸だけでなく大阪や京都でも頻発していた都会病。いずれも、飢饉が続くと患者は激減したそうです。

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