江戸の歳時記|2月 梅
・「梅」の身上調査
 梅は、バラ科サクラ属の落葉小高木で、桜や桃と同じ仲間です。原産地は中国。日本でも弥生時代の遺跡から梅の核が発見されていますから、少なくとも2000年以上、日本人は梅の花とお付き合いしているということになります。
万葉の時代には花の美しさを愛でるのはもちろん、髪に挿したり、袖に入れたりもしたようです。彩り、形、香りともに清楚にして華があり、おしゃれの小道具にするにはピッタリだったのでしょう。
平安時代には、京都御所にも植えられました。現在、紫宸殿を背にして南を向くと、左手に桜、右手に橘が植えられ「左近の桜、右近の橘」と呼ばれていますが、この「桜」のあったところに、桓武天皇が遷都の際に植えられたのは、梅だったのです。
梅の学名は、プルヌス・ムメ。名付け親はシーボルトで、文政年間に来日していたとき(1823〜1828)に梅を見つけ、日本原産と思い込み、当時の発音「ムメ」を、そのまま種名としました。ちなみに「梅」は、昔は「鳥梅」や「宇米」、「有米」などとも書かれていたんですよ。
・梅VS桜
 梅の名は、『日本書紀』や『古事記』には見られず、奈良時代後期に編纂された『万葉集』から登場します。それも、なんと梅を詠った歌が118首も登場していて、花の名前としては第2位の登場率を誇っています。ちなみに、第1位は萩で141首。桜は40首しか出てきません。
さらに目につくのは、第1位の萩の歌を詠んだ6割が「読み人知らず」であるのに対して、梅は名前を明記している人が4分の3を占めます。大伴家持や山部赤人なども、そうした歌人の1人。このことからも、どうやらこの時代は、萩は一般庶民に、梅は上流階級に人気があったということがいえそうです。
ところが、その後、梅の人気は下がり、かわって桜の人気が上昇します。平安後期に編纂された『古今和歌集』では、桜の歌が100首以上もあるのに対して、梅の歌は20首にも達しません。なぜ、梅は人気が落ちたのか……?
諸説あるところですが、梅を愛でることにも現れていた中国文化の影響が、このころから少なくなってきたからではないかという説が有力かと考えられます。 梅から桜へ――。それは、日本に独自の文化が育ち、花を咲かせていく時代になったということを象徴しているともいえるのです。
・菅原道真と「梅」
 梅といえば菅原道真公の「飛び梅」を思い出すかたも多いでしょう。大宰府へ左遷させられることになった道真公が、京都の自宅で最後に詠んだ歌が  東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春を忘るなそして、この歌に詠まれた「梅」が、主人を追って大宰府まで飛んでいったというのが「飛び梅」伝説です。失意のうちに道真公が亡くなると、とたんに政敵の藤原時平が急死、さらに御所に雷が落ちるなど京都には異変が続きました。震え上がった朝廷は、あわてて道真公に正二位の位を贈り、大宰府に寺を立てて道真公を祀りました。これが、のちの太宰府天満宮。いまも、太宰府天満宮には「飛び梅」があり、神木として大切に守り育てら れています。
現在、道真公を祀る神社は、全国に1万2000社以上といわれ、東京だけでも30社以上があるそうです。道真公は学問の神様として崇拝を集めているだけに、梅の花が開く季節は、合格祈願に訪れる受験生でいっぱい。真剣な面持ちで参拝する受験生たちを、梅の香が優しく迎えます。
亀戸天神社
亀戸天神社【写真:亀戸 船橋屋】
・ゴッホも見とれた「亀戸の梅」
 現在、東京都区部の梅の名所といえば、文京区の「湯島天満宮(湯島天神)」や江東区の「亀戸天神社(亀戸天神)」、新宿区の「新宿御苑」、大田区の「池上梅園」、少し離れて世田谷区の「羽根木公園」あたりでしょうか。そのなかでも賑やかさでいえば、やはり菅原道真ゆかりの「亀戸天神」と「湯島天神」。開花に合わせて梅まつりも行われています。
ところで、江戸時代、亀戸天神の近くに有名な梅の名所がありました。呉服商・伊勢屋彦右衛門の別荘「清香庵」で、別名を「亀戸梅屋敷」。300余本の梅の木があり、なかでも龍がうずくまり臥せたような形をした「臥龍梅」という梅は、名木として知られまし た。歌川広重が『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』として描き、ゴッホがそれを油絵に模写した事でも知られる梅は、この梅だったのです。
屋敷には多くの文人墨客が訪れ、そのなかには8代将軍徳川吉宗公や水戸光圀公のご一行もあったそうです。現在は、もう屋敷も梅の木も残っていないのが、残念です。
亀戸天神社
亀戸天神社【写真:亀戸 船橋屋】
境内に約300本の梅が植えられている。
湯島天神
湯島天神【写真:湯島天神】
・水戸・偕楽園に「梅」が植えられた理由
 梅の名所として名高い、水戸の偕楽園。いうまでもなく日本三名園の一つですが、ここの梅の木、そもそも何のために植えられたのか、ご存知ですか? 徳川家のお庭ですから、もちろん庭園を彩る花木の一つ……と思ったら大間違い。偕楽園を開園した徳川斉昭公は、花よりも「実」を重視して、梅の木を植えたのです。
 そもそも斉昭公が考えたのは、変事があったとき、城に集まってくる藩士たちにどんな食料を与えたらよいかということでした。「手軽で力の出るのは、梅干し入りのおにぎりだ」。そう考えた斉昭公は、計算をします。1人3食、毎回3個のおにぎりを割り当てるとして、5000人いれば1日で45000個の梅干しが必要になる。これで、戦が長引けば、大量の梅が必要になる……。そこで、斉昭公は、まず偕楽園を造って梅を植え、それを手本に城下にも梅の植樹を奨励したのです。
 実は梅干しに含まれるクエン酸には、一緒に食べた物をエネルギーとして無駄なく消費させるパワーがあるのです。また、昔のおにぎりご飯は、麦飯だったり、雑穀入りだったり、白米でも精米度合が低いものを炊いたので、梅干しおにぎりだけでも戦う力は出たのです。太平の世などともいわれる江戸時代ですが、質実剛健の誉れたかい名君の考えることは、さすがに違うようです。

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