【ま】祭りと年中行事
 江戸は100万人以上もの人々が住む大都市でしたが、一方で、自然豊かな地でもありました。
江戸の地形を大まかに説明すると、上野、神田、皇居、愛宕山、品川御殿山の5つの台地があり、その間に川が流れて、海に注いでいます。つまり江戸は、丘あり、坂あり、川あり、池あり、平野あり、海ありという、実に変化に富んだ風景を持つ町だったのです。
ということがわかれば、江戸の年中行事の多くが自然を楽しむものであることも、すんなりと理解できるはずです。花見も潮干狩りも、舟遊びも花火も、月見も紅葉狩りもしかり。
ついでに、これらの行事の根底に、祈りや浄め(きよめ)の意味合いがあったことにも注目してください。たとえば、花見は豊穣を願って田の神を迎える祭りが形を変えたものですし、花火を含む水辺での遊びは、禊祓(みそぎはらえ)に始まっています。雛祭りや端午の節句、節分などは言うまでもありません。
さらに、1年中さまざまな社寺の祭りも行われていました。6月の山王祭りや9月の(現在とは祭礼月が違います)神田祭をはじめとして、三社祭、富岡八幡宮例大祭、根津神社例大祭、ほかに天神様や恵比寿様のお祭りなども……。
江戸は、八百万の神が自然の中に、生活の中に住まう町でした。行事に強い宗教性が表れていなくても、人々の心の中には、自然や神を尊び、恐れる気持ちがゆったりと流れていたのです。江戸の祭りや行事については、「江戸の歳時記」でもくわしくご紹介しています。

【み】ミエで買う初物
 太平の世が続き、生活にゆとりが出てくると、江戸っ子たちは旬に先立って出る初物に興味をいだくようになりました。俗に言う「初物を食べると七十五日長生きをする」という縁起かつぎも手伝って、庶民の初物に対する情熱は高まるばかり。なかでも最もよく知られるのが、初鰹フィーバーです。
「目には青葉山ほととぎす初鰹」。元禄の俳人、素堂も詠んだように、初鰹は江戸の初夏の風物詩。初鰹が出始めるのは旧暦の4月初旬ですが、それ以前にハシリの鰹が出て、金持ちの粋人が縁起物として買い求めました。
たとえば、文化9年(1812)、魚河岸に初入荷した鰹は17本。うち6本は将軍家のお買い上げ、3本は料亭の八百善が購入。かくして残りの8本が魚屋にわたったわけですが、そのうちの1本を中村歌右衛門が3両で買い、大部屋の役者に振舞ったと蜀山人が書いています。3両といえば、今のお金にすると10万円ほどでしょうか。
庶民も、せめて町内では一番早く鰹を買おうとミエをはり、なけなしの金をはたいて購入しました。買った鰹は「井戸端で見せびらかして刺身をし(江戸の川柳より)」と、お披露目。
初鰹に対する異常なまでのフィーバーは文化年間の中頃にはおさまったようですが、江戸っ子は初鮭、初ナス、初茸などにも目をつけ、野菜などは促成栽培が盛んになったほど。幕府が物価の高騰を懸念していろいろな規制をかけても、江戸っ子には、さっぱり効き目がなかったようです。

【む】虫もススキも売りに来た
 江戸の下町には、一年中いろいろな物売りが来ていました。なかでも楽しいのが、季節物。そのうちのいくつかをご紹介しましょう(日付は旧暦)。
・宝船――正月。「なかきよの(長き夜の)…」で始まる廻文の歌が添え書きされた宝船の絵。正月2日にこの絵を枕の下に敷いて寝ると、めでたい初夢を見ると言われていた。
・赤イワシ・ヒイラギ売り――節分前。いずれも家の戸口にはさむ、邪気を払うおまじない。
・観賞用の苗――春~初夏。朝顔、夕顔、とうきび、へちま、なすなどの苗。下町には田畑がないので、珍しがって買った。朝顔については、「江戸の歳時記」7月の項を参照。
・虫――6月~お盆前。ホタル、コオロギ、マツムシ、スズムシ、クツワムシ、ヒグラシなど。虫と一緒に趣向を凝らした虫籠も販売。なお、買った虫は、お盆に放した。
・金魚――夏。金魚は17世紀の始めに中国から伝わったといわれる。元禄期から庶民の間で流行し始め、しゃぼん玉や風鈴売り、七夕飾りなどとともに、夏の風物詩となった。
・ススキ――8月15日の前。お月見の宴のお供え用。江戸では8月15日の十五夜のほか、十三夜や二十六夜の月待(つきまち)も盛んだった。
・鰻、亀、鳥など――8月15日の前。放生会(ほうじょうえ)に放つ生き物。
・暦――12月下旬~。暦は専売制で、江戸では元禄年間に11軒に定められている。暦売りは、これを売り歩くもので、12月下旬から正月末まで商った。

【め】名産品いろいろ
 江戸近郊では18世紀ごろから、名産といわれる食品が登場してきます。そのいくつかをご紹介しましょう。
・浅草海苔――古くは深川あたりでノリがとれたが、まもなく品川沖から大森沖が名産地となった。加工・販売の店が浅草に多かったので「浅草海苔」の名になったとも。江戸土産の第一。
・佃煮――佃島の漁民が雑魚を醤油で煮しめて、日持ちをよくして人気を呼んだ。とりわけ白魚の佃煮は高級品で、珍重された。
・業平のシジミ――業平橋周辺で採れたものは、粒が小さめのハマグリほどもあり、風味も良いとしてブランドとなった。
・早稲田のみょうが――早稲田のほかに、目白や茗荷谷周辺も産地だった。
・駒込茄子――なすは各所で作られたが、ブランド品といったら「駒込なす」だった。
・砂村のスイカ――砂村は、現在の江東区南砂・東砂・新砂のあたり。カボチャやネギ、キュウリなども名産で、促成栽培で、また名をあげた。
・練馬大根――練馬周辺は火山灰土の赤土層が深く、大根栽培に適した。加工品のたくわんも名産。
・目黒の筍――目黒、碑文谷周辺。目黒不動の参詣土産に出して、名産品のうわさが広がった。 上記のほかに、現在の江戸川区・小松川あたりで作られた小松菜、谷中のしょうが、千住のネ ギなども、名産品として知られました。

【も】門限は夜10時(町割りの話)
 江戸時代の町割りのお話です。幕府では治安重視を考え、市街を武家地、寺社地、町人地と分けて、江戸城を中心とする町づくりを行いました。
日本橋を中心とする町人地においては、京都の町割にならって碁盤の目状に造りました。道幅も、通町筋の道路は幅6丈(約18m)、横町筋は幅2丈(約6m)・3丈(約9m)・4丈(約12m)に整備。そして、60間(約108m)四方を1区画とし、通りに面して奥行き20間の町屋を造り、中央に20間四方の会所地(共有の空き地)を設けました。もっとも江戸の人口が増えてくると、家と家の間から会所地を通って反対側へ抜ける道ができ、せっかくの公開空地はなし崩し的に宅地、すなわち裏長屋が立ち並ぶことになってしまいましたが……。
ともかく、こうしてできていった町には一町ごとに木戸があって、番小屋が造られていました。さらに主要道路の木戸側には火の見櫓を屋上に取り付けた番屋も設けられました。木戸は、明六つ(午前4時頃~6時半頃)に開門し、夜四つ(午後9時半~10時半)になると閉門。町人地は、きっちりと管理されていたのです。
まさしく、門限とはこのこと。多少の融通は利いたものの、隣町に恋人がいる人にとっては、さぞかし気の重いシステムだったことでしょう。

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