<大江戸広辞苑>【あ行】

【あ】アイドルは遊女と看板娘
 江戸時代のアイドルといえば、まずは太夫(たゆう)をはじめとする上級遊女でした。
遊郭は遊興の地であると同時に、芸能を鑑賞したり俳句を楽しんだりできる文化センターの一面もあり、そのお相手を務める女性のトップが「太夫」。美貌と教養を兼ね備え、さらに人柄のよさも必須条件でした。
もちろん、太夫と遊べる人は、ひと握りの武家や豪商だけでしたが、庶民も太夫の道中をかいま見、さらには浮世絵を眺め、物語を読んで、憬れを募らせたのです。また、遊女は女性のファッションリーダーでもあり、彼女たちの髪型などが流行の先端となりました。なかでも江戸・吉原の高尾太夫、京都・島原の吉野太夫、大阪・新町の夕霧太夫は、代々その名を受け継いだ当代きっての人気アイドルでした。
江戸も後期になると、茶屋の看板娘がアイドルになりました。特に谷中の笠森稲荷神社門前に店を構える「かぎや」の「おせん」は、その代表。おせん人気はすさまじく、彼女を題材した芝居は大当たりし、浮世絵も飛ぶような売れ行き。当時、人気絶頂だった浮世絵師、鈴木春信なども熱心に彼女を描いています。
高嶺の花のゴージャス系美人と、素人っぽさがウリのナチュラル系美人。アイドルの黄金の2パターンは、現代も不変ですね。

【い】いき(粋)とは?
 「いき」とは、18世紀後半の江戸に成立した美意識です。美意識といっても身なりや容姿だ
けではなく、生き方にまで通じる一種のしゃれた色気や雰囲気をいいました。反語が「野暮(やぼ)」だと言えば、感じをつかんでいただけるでしょうか?
いきは、もともとは「意気」だったといいます。また、当世や程、趣向などと書いて、「いき」と読ませることもあり、「いき」という言葉が、どれほど深い内容と広がりを持っていたかがわかります。
九鬼周造の『「いき」の構造』によれば、いきとは「垢抜けして、張りのある、色っぽさ」と定義されています。そして、いきな身体的表現として、「湯上り姿、姿がほっそりして柳腰、薄化粧、素足」などの例があげられています。また、いきな模様は「幾何学模様。とくに縞模様」をあげ、いきな色彩は「銀鼠(ぎんねず)等の灰色系統、黄柄茶などの褐色系統、藍色や江戸紫などの青色系統」であるとしています。つまり、「いき」というのは、華美を抑えつつも地味にならず、粗野にならない、微妙なバランスセンスが求められたのです。
「いき」という江戸独自の美意識が現れた18世紀後半は、江戸幕府が開かれて約200年後のこと。巨大化した新興都市に独自の文化が芽ばえ、洗練され、昇華されるのには、それだけの時間が必要だったということです。

【う】討入りの本当の日付
 「時は元禄15年12月14日…」。
名調子で語られるのは、ご存知、赤穂浪士の討入り。大石内蔵助ら47人が、主君である赤穂藩主・浅野長矩のかたき吉良上野介を江戸本所・吉良邸で討ちとった日です。
ところで、いまも12月になると「本日は赤穂浪士の討入りの日です。赤穂浪士たちは雪を踏みしめて討入りに向かいましたが、今年は温かくて雪の心配はいりません」などとテレビやラジオで言っていますが、ちょっとコレ、問題なんです。
江戸時代、人々は旧暦で暮らしていました。ですから、元禄15年の12月14日を現代の暦になおすと1月30日になるのです。1月末なら、雪が降っても、不思議ではありません。
さらに、市販の多くの本が、討入りの西暦を1702年としていますが、元禄15年が1702年なのは11月13日まで。11月14日以後は1703年なのです。こうした間違いは、ほかの歴史事例にも数多く見受けられます。
討入りの日付を西暦にしたいのであれば、1703年1月30日が正解。日付はともかく、多くの本が西暦を間違えています。お手元の本、確かめてご覧になりますか?

【え】江戸前とは?
 江戸前とは、まさしく江戸の前海のことをいいます。ちなみに、文政2年(1819)に魚河岸問屋が肴役所へ出した答申書には「江戸前と呼べるのは、品川洲崎の一番杭と深川洲崎の松棒杭を結んだ線より内側である」といった内容が記され、決して江戸「沖」なんかではなく、「目の前の海」であることを強調しています。
また、「江戸前寿司」「江戸前うなぎ」などの言い方が生まれたのは、享保年間の末頃(1735年頃)のこと。現代の「関サバ・関アジ」と同じ、産地ブランド名でした。
当時、江戸前の魚介として知られていたのはアジ、タイ、ヒラメのほか、キス・サヨリ・コハダ・アジ・ギンポウ・カニ・シャコ・エビ、アナゴなど。ほかに、隅田川の河口や深川の小名木川でとれる白魚やウナギ。また、ハマグリ、シジミ、アサリなどの貝類も江戸前を冠していました。なかでも江戸前のアジは貴重視され、鰻は名物視されました。
漁村は、関西から移住してきた漁師が定住した佃島をはじめ、深川、芝浦などにあり、それぞれ江戸の町からの大量需要にこたえて発展していきました。
芝の海辺で財布を拾った魚屋が出てくる古典落語の名作「芝浜」は、漁師町、芝浦を舞台にした人情味豊かな噺です。

【お】おかげ参りと「ええじゃないか」
 太平の世が続き、町人の経済力がつくとともに、旅は江戸っ子の楽しみとなりました。なかでも、「一生に一度は行きたい」と夢見たのが「お伊勢参り」。江戸から伊勢までは2ヵ月近くかかる大旅行ですが、遠いほど思いもつのるのか、伊勢参りは「御蔭参り(おかげまいり)」と称されて次第にブームとなっていきました。
ところが、伊勢参りがブームを通り越して、熱狂にまでいたる年がありました。宝永2年(1705)に伊勢参りに出かけた人は362万人、明和8年(1771年)は270万人、文政13年(1830)は486万人! 宝永2年の362万人という数字は、当時の全人口の約14%にあたるといいます。
洗濯物を干していた女性や壁を塗っていた職人が、そのまま行列に加わるというようなことも珍しくなかったそうで、ほとんど何かに取り付かれたかのような異様な集団の大行進です。
一方、「ええじゃないか」は、幕末に起こった現象で、慶応3年(1867)に三河吉田や名古屋で「伊勢神宮の御札が空から降る」というウワサが起こり、たちまち全国に広まった集団乱舞です。卑俗猥雑な歌詞に「ええじゃないか、ええじゃないか」のはやしをつけて踊り歩いたそうで、一説には、倒幕派がこの混乱を利用したともいわれています。

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