<白木屋傳兵衛>中村梅吉さんの「いい話」【第9回:あきんどの習慣】

うちの店も、まがりなりにも私で6代目。かすかながらも江戸の香りがするということで、なんだか変な習慣が残っていた。
最初の「迷信」が私にふりかかってきたのは、幼稚園の遠足に参加できないことだった。曰く「日が悪い」。私は暴れに暴れたが、どうしても遠足には行かせてもらえなかった。それからの私は、これらの因習、迷信をぶち壊すことに専念した。男の厄年除災祈願も、言われたとおり川崎大師まで行き、手を合わせて「頼みません」と拝んで帰って来た。後年には、「霊入れ」した町神輿の中をのぞいた。
八卦見(はっけみ)も難題だった。戦災後、焼け跡にバラックを建てる時でも「鬼門」がどうとかで母と大激論した。撃破するには敵を知る必要があるので、その方面の本も読んだ。要は、昔は医療や衛生環境が悪かったので、「医者に見離されたら神頼み」ということで信仰が生まれ、それが少し曲がって迷信を産んようだ。
お払い(神仏に頼って厄を祓う)も多く行なわれた。ウチには鎮守の神主ではなく、在野の神主が出入りしていた。鵜の木の光明寺からの「善導大師像」の出開帳ももたれた。いずれも家内安全、商売繁盛を願ってのことではあったが、戦争の大嵐が吹くと、小商店の安全など箱庭の家のように吹っ飛んだ。魚河岸で場内仲買を営む母の実家などは、家内に稲荷社を祭り、初午の祭礼を毎年、盛大に行っていたが、戦時から戦後にかけて若い家族2人が病没した。それでも、当時は「信心をしていたから、その程度で済んだ」と言ったものだ。
これは江戸博で教わったことだが、江戸の庶民は何かあると披露(宴会)をしたらしい。新規開店はもちろん、地所を買った時や店を新築改築した時、店主を相続した時などは近隣縁者を招いて酒食を呈し、「披露」した。披露することによって「認可」されたことになったのだ。
こうした集まりは戦争中の物資不足などにより激減し、戦後は“合理化”によりなくなっていった。
歳末の神社のお札配りに始まって、羽子板市、歳の市、正月飾り、正月の獅子舞、恵方万歳、宝船売り、初夏の朝顔市、四万六千日、ほおずき市、お盆行事、月見行事、毎年のようにある法事……。面倒も減ったが、楽しみも消えていく。これも「時代」であろうか。
中村梅吉(なかむら うめきち)
白木屋中村伝兵衛商店6代目店主。昭和4年(1929)、東京市京橋区宝町3-4(現:中央区京橋3-9-8)に白木屋箒店(現、白木屋中村伝兵衛商店)の長男として生まれる。
区立京橋国民学校(小学校)、東京府立第3中学(現両国高校)を経て、東京外事専門学校(現東京外語大)の蒙古科に入学。蒙古語、中国語、ロシヤ語を習得。昭和37年(1962)から平成15年(2003)まで、6代目店主として家業に勤しむ。
昭和55年(1980)から中央区歴史講座で川崎房五郎氏に師事し、江戸学を開始。隠居後、中央区の文化サポーターや江戸東京博物館ボランティアとして、年間30回以上、講演や街歩きの案内を務めている。
また、東京大空襲の被災者としての証言など、様々な形で江戸—東京の歴史を伝える活動にも関わり続けている。茶道、飛行機模型、手話などなど、趣味も多彩で本格派。