【蓮玉庵】
◆蕎麦屋の大事件◆
 私がまだ高校生だった時分の話ですから、もう随分昔の話になります。
昭和30年の冬のある日、帝国ホテルから1本の電話がかかりました。「お蕎麦の出前ができますか?」
当店は昔も今も出前をしておりません。お断り申し上げたところ、のちほどお客様が来店されるということになりました。そして、まもなく黒塗りのハイヤーがずらりと店の前に並んだので、さあ店も町内も大騒ぎになりました。
 ハイヤーから降りてこられたのは、中国の思想家であり、政治家、革命家である郭沫若(かくまつじゃく)氏でした。氏は旧制一高と岡山の六高で学び、九州帝国大の医学部を卒業して帰国しましたが、蒋介石との対立から昭和3年に日本に亡命し、10年間を市川市で過ごした知日派です。国交回復前のこの時の来日は、日本学術会議の招きによるものでした。
 この日、郭沫若氏はお蕎麦を召し上がったあと、父の願いに応じて「そば五枚 酒三十杯 十八年の懇望を満足させていただいた」といった意味の書をしたためて、店をあとにされました。力のみなぎる見事な草書です。
 のちに掛け軸に仕立てたこの書を見るたびに、皆があわてふためいた日のことが思い出されます。そして、「国賓に書をお願いするとは」と、父があとで叱られたことも、今は懐かしい思い出です。
 当店では蕎麦や上野周辺を描いた浮世絵を、月替わりで店内に掛けているほか、時にこうした当店の歴史に彩りを添えてくださった著名な方々ゆかりの品も展示しております。どうぞ、蕎麦とともに、お楽しみください。
     
蕎麦
◎蓮玉庵
●台東区上野2-8-7
(JR御徒町駅、地下鉄上野広小路駅から徒歩3分)
●03(3835)1594

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