江戸・東京散歩
第10回 銀座・京橋
今回の江戸・東京散歩は、京橋~銀座。有名ブランドショップやデパートが軒を連ねる、名実ともに「日本一おしゃれな繁華街」を歩きます。
銀座を南北に走る中央通りは、江戸の昔のメインストリート「東海道」。着物に、グルメに、生活関連グッズ……。老舗の職種のバラエティも多彩で、ほんとに充実した散歩になりますよ!
■江戸歌舞伎発祥の地碑・京橋大根河岸青物市場跡碑
 京橋駅からだったら、中央通りを銀座方面に向かって歩いて、右手。ちょうど高速道路の高架にさしかかる手前の歩道上に、「江戸歌舞伎発祥之地」の石碑が建っています。
「二月十五日より中橋に於(おい)て、中村勘三郎歌舞伎芝居始めて興行す・・・」江戸歌舞伎は中村座の創始者でもある勘三郎が、中橋に常打ちの芝居小屋を旗揚げし、大評判をとったことから、大きく発展したのです。
その中橋というのは、日本橋と京橋の中間にかかっていた橋なのですが、いまはありません。かつて芝居小屋が建ち並んでいた頃の面影は、この石碑だけというわけです。
なお、「江戸歌舞伎発祥之地」の碑の奥には「京橋大根河岸青物市場跡碑」もあるので、こちらもお見逃しなく。延宝3年(1675)、ここに誕生した青物市場は、昭和10年、築地に移転して、なくなりました。
(左画像)江戸歌舞伎発祥之地。高速道路に視線が奪われて目立たないのが残念ですが、横にある大きな桜の木が春は花びらを散らし、夏には木陰をつくって目印になってくれています。
(右画像)京橋大根河岸青物市場跡碑。
■警察博物館
 中央通りをはさんで、「江戸歌舞伎発祥之地」碑の前に建つのが、警察博物館。「警察のお世話にはなりたくない」と思っている人が多いのでしょうけれど、ここなら大丈夫。こわもてのおまわりさんではなく、きれいなお姉さんが迎えてくれます。
ここは、警視庁が持つ1000点あまりの史料を展示する博物館。警視庁は、現在は、東京都公安委員会の管理のもと、9つの部と警察学校、10の方面本部や101の警察署などにより構成されているのですが、そのの歴史は、とりもなおさず明治7年に誕生した日本の警察の歴史でもあるわけです。意外(?!)にも、なかなか楽しめました。
玄関を入った1階は、白バイの前身である「赤バイ」や、警視庁が所有したヘリコプターの1号機などがドーンと展示され、2階は警察の歴史史料。3階は、明治以来の制服の展示や事件・事故の記録。そして、4階には音楽隊のコーナーなども。
たまにはこんな異色の散歩スポットを訪れてみるのもいいのでは?入場は無料です。
(左画像)警察博物館の入口。月曜日と年末年始は休館です。
(右画像)1階に展示されている「赤バイ」。昔は白バイではなく、赤かったなんてビックリ。現在、東京都の警察官は約42000人。約950台の白バイ、約1100台のパトカーが、東京を守っているそうですよ
■京橋記念碑とガス灯
 警察博物館の並び、銀座寄りの歩道上にあるのが「京橋記念碑」と「ガス灯」。高速道路のほとんど真下にあるので、何度、前を通っていても気がつかないという悪条件にあるんですが、これもなかなか興味深い歴史の碑です。
「京橋」という地名は、江戸時代、東海道を日本橋から出発し、京都に行くときに通る橋といったあたりからつけられた名前ですが、当時の京橋は特色のある町でした。
というのも、日本橋が大店が並ぶ富裕な繁華街だったのに対して、こちらは小さな商店が軒を連ね、職人も多く住む、庶民の活気があふれる町だったからです。
江戸時代の地図を見ると、桶町、南大工町、畳町、南鍛冶町、南鞘(さや)町、南塗師(ぬし)町、炭町など、住民の仕事や生活が見えるような町名がぞろぞろ。ぜひ、図書館で江戸地図を開いてみてください。江戸散歩がもっと楽しくなりますよ。
京橋記念碑の横にたつガス灯。ガス灯は、日本では明治5年(1872)、横浜の馬車道通りに灯ったのが最初。銀座では、明治7年から街路沿いに設置されました。煉瓦建ての建物とガス灯は、モダン銀座の始まりであり、西洋に負けない近代文明国家日本をアピールするシンボルだったんです。
■銀座発祥の地
 銀座2丁目の歩道に「銀座発祥の地」と書かれた記念碑が建っているのをご存知ですか?
「慶長十七(一六一二)年 徳川幕府、此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時、町名を新両替町と称せるも、通称を銀座町と呼称せられ、明治二年ついに銀座を町名とすることに公示さる」江戸時代、ここに銀貨を鋳造する銀座役所があり、周辺には金貨や銀貨を、手数料をとって両替する店がたくさんあったので、通称を銀座と言ったというんですね。
ちなみに、銀座役所は寛政12年(1800)に日本橋蛎殻町に移転しますが、その理由は、銀座役所と両替商が近いことから、贈収賄事件まで起きるようにな癒着が広がっていったからだとか。うーむ、人間のする悪事は、今も昔も変わらないんですね。
なお、石碑にある明治2年に正式町名となった”銀座”のエリアは、現在の銀座1丁目から4丁目までの、中央通りに面した東西1区画分だけでした。つまり、現在の銀座と比べると、10分の1ほど面積。もともとの銀座は、狭かったんですね。
銀座のおもしろ話はまだまだありますが、このあとは銀座の公式ホームページ「銀座コンシェルジュ」http://www.ginza.jp/story/index.htmlにお任せしましょう。銀座らしいおしゃれなお役立ちHP。おすすめです。
銀座2丁目にある「銀座発祥の地」碑。立派な碑なんですが、車道側に建っているので、ウィンドウ・ショッピングをしていると見過ごしちゃいます。
■数寄屋橋の碑
 数寄屋橋は、その昔は、銀座から江戸城の数寄屋橋御門に続く道の途中にかけられていた橋です。現在、その跡を示すのが、数寄屋橋公園にある「数寄屋橋の碑」。碑文の「数寄屋橋此処(ここ)にありき」という字を書いたのは、劇作家・菊田一夫です。
菊田一夫を知らない若い世代のために注釈を加えると、菊田は劇作家としてさまざまな芝居を書いたのですが、なんといっても有名な作品が、昭和27年から2年間にわたって放送されたNHKラジオドラマ『君の名は』。数寄屋橋は、延々とすれ違いを続ける主
人公の恋人二人が、初めて出会った運命の場所でした。このドラマは昭和28年に佐田啓二と岸恵子の主演で映画化もされ、空前の大ヒットとなりました。
かくして、数寄屋橋の名は昭和のドラマによって全国に知られるようになったわけですが、 “数寄屋”という橋の名は、近くに住んでいた茶人の織田有楽斎(おだ・うらくさい/織田信長の弟)が営んだ数寄屋造りの茶室に由来するともいわれる江戸以来の由緒ある名前です。ついでに付け加えると、有楽町という町名は「有楽斎」の邸宅があったことから名付けられたんですよ。
もう一つおまけの話を。数寄屋橋公園に隣接する泰明小学校は、北村透谷や島崎藤村の母校として知られていますが、透谷というペンネームは、「すきや」をもじってつけたものだそうです。ご存知でしたか?
「数寄屋橋の碑」の後ろには、岡本太郎の『若い時計台』と名付けられた作品も。
■銀座の路地
 「銀座は路地が多い」ってことはご存知ですよね? あなたのご贔屓の店も、路地の中にあったりするのかな?
路地の楽しさは、そうした「誰も知らないような」、でも、おいしくて居心地のよいお店を発見できること。それから、路地を「近道」として使う楽しさもありますよね。
そんな路地の楽しみに、もう一つ。神社めぐりはいかがでしょう。ほとんどの人が気がつかないで通り過ぎている、ご利益満点の2本の路地をご紹介しましょう。
1本は、晴海通りに面した天賞堂の裏側にある路地で、カギ形に曲がっているのが特徴。路地のなかほどに建つ「宝童稲荷(ほうどういなり)神社」は、名前のとおり子育ての神様です。
もう一本は、銀座7丁目、すずらん通り沿いのギンザ108ビルの横にある細い細い路地。この路地の突き当たりに、縁結びにご利益のある豊岩稲荷神社があります。ここは、ほんとにわかりにくい! それだけに、見つけたときは感激です。
(左画像)宝童稲荷神社。この路地には古いバーもあったりして、独特の雰囲気。
(右画像)白いお狐さまが路地の奥で出迎えてくれる豊岩稲荷神社。人が一人、やっと通れるほどの入り口。見つけられるかな?
【老舗散歩も楽しんでね】

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