<日本橋弁松総本店>樋口純一さんの「日本橋絵葉書びっくり展覧会」(第4回)
日本橋絵葉書びっくり展覧会」へようこそ。第4回目となる本日も開会のお時間となりました。ご用とお急ぎでない方はどうぞごゆっくり覗いていってください。
 この展覧会の会期中に、所有している日本橋絵葉書をきっちりと分類・整理したいと思っておるのですが、まずはざっくりと枚数を数えたところ、1,100種類ほどございました。現在もなお、少しずつ増殖中です。今回もその中から厳選した絵葉書をご覧いただきます。お代は、東都のれん会加盟店でのお買い物で。

前回までは、今の日本橋の架橋から戦後までの風景をお楽しみいただきましたが、今回は先代の日本橋特集でございます。橋そのものが別物だった時代、果たしてどんな光景が存在していたのでしょうか?
 なお、現在の日本橋が何代目かは諸説ありますが、当展覧会では20代目としてお話させていただきたいと思います。

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まずは前座としてこの一枚でございます。江戸時代の日本橋とのことですが、何代目の橋なのかは不明です。
 江戸東京博物館にある実物大のレプリカが15代目辺りの橋を再現しているそうですが、あの橋に似ているので、この絵葉書もそのころの橋かもしれません。
ちなみに、これは写真ではなくイラストです。

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当方所有の絵葉書で、写真を使用した日本橋の一番年代が古いものがこちらです。
19代目に当たるこの橋までは木造で、明治6年に改架されました。
 さらに18代目までは横から見ると橋が丸くなっている反り橋(浮世絵などでお馴染み)でしたが、19代目からはフラットな作りの洋風な橋になりました。これは、馬車や人力車が増えて来たためで、当初は乗り物と人が通る道を分けるために柵が設けられていました。大胆なイメチェンです。欄干や柵はなんと青緑のペンキで塗られていたそうで、木製なのにカラフルな橋だったのです。

真ん中はもちろん乗り物が通り、左右は左側一方通行で人用でしたが、そんなルールなど守られるはずもありませんでした。しかし、この時代に人にも配慮した道路を作ったという事実は、我が国の近代国家誕生期の一つの側面と言えます。
 なお、橋の向こう側にある白い壁の横長の建物は、魚河岸の商品倉庫です。橋の手前左側は、有名な日本橋の高札場です。人力車がたむろっていますが、ちょうど写真部分の下部中央に土下座した人がいるように見えるのは気のせいでしょうか?昼寝している犬にも見えますが。人力車は明治3年に営業許可が下り、まさしくこの高札場の横で営業を開始したのです。

手前右側にも人山ができております。その辺りには晒し場があったのですが、明治5年に電信局が作られた際になくなったと思われます。
 絵葉書の写真は明治6年以降なので、どうやら晒し場の罪人を見物しているわけではないようです。橋の上にはガス灯が確認できます。
 ガス灯は明治8年に設置されたので、この絵葉書は、明治8年から15年の間の風景と推測されます。

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先ほどの橋はよく見ると欄干が×印になっておりました。こちらはただの縦横の線になっています。同じ橋なのですが、実は明治15年に大リニューアルを行ったのです。
 また、橋の上のガス灯がなくなり、写真右端に2本の電信柱が見えます。当時の四日市河岸(現在の江戸橋のたもとの首都高入口の辺り)から撮影した1枚です。
「明治初年の日本橋」と書いてありますが、それは嘘でございます。後世の絵葉書研究家たちが惑わされるので、正確な記載を願いたいものです。

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こちらは同時期の橋の上の風景です。
中央に馬車が写っております。これは明治15年6月25日に開通した鉄道馬車です。法人名は「東京馬車鉄道株式会社」で、最初は新橋─日本橋間が開通し、その後浅草まで延びていきました。

専用のレールが敷かれており、路面電車の一車両のような客車を馬が引いております。エコロジーとも動物虐待とも言えるこの時代ならではの乗り物です。馬たちのささやかな抵抗だったのか、この鉄道馬車は道路破壊とほこり、そして糞尿被害が問題となり、やがて路面電車へと変わって行くのです。当時はまだ魚河岸があった日本橋通り(今の中央通り)が牧場の様な香りだったと想像するのもまた刺激的でございます。
 そして、こちらの絵葉書では急激に電線が増えているのが確認できます。庶民の暮らしもどんどん変化していったことが伺えます。
 あちこちに見られる焼き網のような柱が電話回線用の電信柱です。当時は回線分だけ送電線が必要でこんな形状だったのです。左端に現在の電信柱に似ているものがありますが、こちらは電力柱(でんりょくちゅう)と呼ばれていました。

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橋のたもとには石垣があり、江戸の名残が感じられる雰囲気でした。
橋の左側から太い柱が2本確認できます。上部が見切れてしまっているので何だかよく分かりませんが、実はこの上にガス燈が設置されていたのです。橋本体のリニューアルと共にガス燈もゴージャスになりました。

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少しだけ時が流れ、交通機関は鉄道馬車から路面電車に変わりました。悪臭が改善され、住みやすい街になったのかもしれません。
 電線が激増しております。橋の向こうに見える洋館は、建て替えられた電信局です。橋の左端には、先ほどのガス燈の全貌が伺えます。
西河岸橋から撮った一枚だと思われます。

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先ほどの一枚からさらに引いたアングルの絵葉書です。
いんちきカラーで彩色されています。電信局にも謎の赤いラインが。その左奥に見える同じ屋根が並んでいるところは、日本橋と江戸橋の間にあった四日市河岸です。ちょうど魚河岸の対岸に当たります。

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現在の日本橋の船着場の辺りからのアングルです。
この頃から手彩色の絵葉書が増えて、プレミア感が出ています。橋の上を路面電車が走ったのが明治36年11月なので、それから明治41年12月に取り壊されるまでの間の1枚です。

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先ほどとはちょうど対角線上側からのアングルです。橋の左側には電信局の上部が覗いています。
 そして、絵葉書中央やや右の辺りには、謎の紳士の看板が確認できます。一体何者なのでしょうか?

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橋の上から見ると、謎の紳士の看板が正面に確認できます。胸部に「胃活」と書いてあります。当時人気の胃薬だったようです。この紳士と森下仁丹の広告の大礼服の紳士は、この頃の広告二大ダンディだったに違いありません。
 その右側に見える塔は、日宋生命保険の建物です。信号機などなかったので、歩行者は大胆に橋の上を横断しています。
絵葉書左側手前で佇んでいる男性の身なりは洋服に下駄のようですが、なんだか現代のサンダル履きの若者のようにも見えます。

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明治38年の英国艦隊来航の際に歓迎の装飾をされた日本橋です。ストライプになった欄干がファンシーです。
 左側の建物には「花王石鹸」「象印」の看板があります。家電の「象印」はまだ創業しておりません。「象印はみがき」の看板です。陸海軍御用だったそうです。

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手彩色版です。
カラーだと日英の国旗が掲げられているのが良く分かります。

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先ほどの「花王石鹸」と「象印はみがき」の看板があった建物の屋根が少し増築されているので、少し時間が経ったようです。そこには「大黒天印 甲斐産葡萄酒」と書かれています。国産ワインの会社です。魚河岸方面には日の丸や三角旗が見られます。何かの祝祭の日だったようです。

この日本橋はこれより数年後に取り壊されて、今の日本橋に生まれ変わります。日本橋が木でできていた時代をお楽しみいただきました。

今では刻の彼方に消えた日本橋の風景の数々でございました。
それでは、今宵はこれにて閉幕とさせていただきます。

樋口純一(日本橋 弁松総本店 八代目)
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日本橋の上を覆っている首都高速道路を撤去する動きが見えてきました。5月22日に、国土交通省、東京都、中央区、首都高速道路で構成する「首都高日本橋地下化検討会」が、神田橋JCTから江戸橋JCT間約1.8kmを地下化する案を提示しました。
 実現にはどのくらいの期間がかかるかわかりませんが、喜ばしいニュースである。現在の石橋日本橋の原点、工事中の様子を描写した明治期の詩人の文章を紹介しましょう。

日本橋は、目今架設中だ。

此が出来上れば、大都会の日本橋として、何様に内外の人目を驚かす事であらう。

費用は五十万金と聞いてゐる。一寸仮橋に佇むで観る。大橋の工事が、最早最後に近づいてゐる。

真白い、如何にも堅固さうな長い石橋が、南北に架つて、まだ石工がコチコチと鑿を振つて居る。(中略)

仮橋から、東の河岸を見ると、会社の白塗の倉庫が屋根を並べ、水上、幾艘とも数しれぬ荷船が、腹を漬けて泊つてゐる。(中略)

愈よ、日本橋竣工の暁は、大都会の雪白の長橋、永く東京人の矜誇となるだらう。

児玉花外『東京印象記』 明治四十四年
       

野口孝一(近代都市史研究者、中央区文化財保護審議会委員)